名車プジョー205はWRCでの活躍もあり世界的にヒットした名車としてラテン車ファンにいまだ根強い人気があります。その名車プジョー205の血統というべき後継車がプジョー206です。1998年にデビューし1999年にはWRCにも参戦。2000年ははやくもチャンピオンになるという205がたどった軌跡を走り始めたのです。そんなプジョー206と私の関わりをニコン製フィルムカメラのF2・F3・F4S、およびデジタル一眼レフカメラD200で撮影した写真で紹介したのがこのサイトです。賛否はありますがサーキットや峠を走り回る私の記録です。もちろん家族の写真や旅の写真などプロカメラマンとして恥ずかしくないまじめなものも多く掲載しています。
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2001 November
2001年11月12日 生きること死ぬこと。 午後9時から癌と闘う家族のドキュメンタリーをTVで見る。2年前の12月21日に父親を癌で亡くした私としては興味深く見ることに。TV的な演出があったのは否めないが共感する部分も多かった。 先に逝ってしまう者と残される者、その絶対的な関係の中で、それぞれがどんな思いで残された時間を過ごすか、そしてやがておとずれる瞬間つまり別れの瞬間にどうあるべきかという極めて哲学的な命題が提示されるという極限状況がテーマであった。それはどちらにとっても相当なストレスであるはずである。TVを見ながら私が体験した別れを思い出した。私の場合、長男であるということもあり、まず父に「心配しなくていいよ。私がいるから」ということを父が意識を失う瞬間まで言い続けた。余命半年と医師から告知された時に気を失った母には、「おふくろが、そんなんじゃぁ親父が不安になるだろ」といってはげまし続けた。私は医師から親父の病状を聞かされたときに、私が「鉄の自制心」で家族を守らなければ!って腹をくくるしかなかった。そして、「直る!」「そう思うことが家族だろ!」って心の中で泣きながら言い続けた。 毎日病院に通い、週末は尚吾を連れて行く。かたことながら「じぃじぃ、びょうきなおるからねげんきだしてね」。そう言われると、父も元気が出るようで「我が家の後取りに言われちゃ、元気にならなくちゃね」と言って尚吾の頭を撫でる。病院でも全く病人しかも余命半年には見えなかった父だが、12月中旬、一時退院した際に引いた風邪で肺炎を併発し、あっけなく逝ってしまった。最後の瞬間、肺がほとんど機能しなくなり酸素不足で霞む目をこらし、「のり(父が私を呼ぶときにいつもこう言う)おるか?」「いるよ。大丈夫だ。ゆっくり深呼吸して」「ありがとな。のり、ありがと。先生は?看護婦さんは?かあさん(母のこと)は?」「みんな、いるよ。大丈夫。深呼吸して」「みんなありがとう。ありがとう。」私たち家族は、父の命が消える瞬間をこうして見守った。 癌の告知に毅然と「先生におまかせします。戦います」と言った父。その立派な態度とは裏腹に心にあふれる不安を父はどう耐えたのだろうか?最後まで、死にたくないとは言わなかった。最後に「ありがとう」と言った。私は父の死の瞬間尚吾を抱き上げ「じぃじぃにバイバイって言いな」と言い、尚吾が生まれた時に「やっと会えたね」と言ったことを思いだした。生と死、生まれることも死ぬことも荘厳かつ厳粛なことなのだ。人は生まれる時、「オギャァー!!」って絶叫する。きっと生まれる苦しみがあるのだろう。死ぬときも何らかの苦しみがある。始めと終わりの苦しみの狭間が人生なのだと悟った。人間は最初と最後に必ず苦しむ、だから真ん中は楽しもうって。それが生きるということなんだと思う。父が私に残した最大の遺産は自らの死をもって生きるということを見せてくれた事だ。